瓜田(かでん)の靴 李下(りか)の冠(かんむり)

『瓜田(かでん)に靴を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正さず』
さっそく「ことわざ辞典」で調べてみました。
<瓜畑で靴の紐を直せば、瓜を盗むのかと疑われる>
<すももの木の下で帽子を直せば、果実を盗むのかと疑われる>
つまり、『人に疑いをかけられるような紛らわしい行為は、心にやましいことが無くても、しない方がよい』 という意味でした。
私は、ある<クレーム>を思い出しました。
一人のある司会者が、司会レクチャー台を盾(たて)に、椅子に座って、下を向いて祝電の確認をしていました。(それ自体、なんの非もない、どの司会者も行っているシーンなのですが)。
それを見た新郎の母より、『司会者が、仕事中に居眠りをしていた』というクレームがついたのです。
その司会者にとっては、全く心外であり、また納得のいかない<クレーム>です。しかし、ことの是非はさておき、司会者に全く<その気>が無くとも、新郎の母には、司会者が<居眠りしているように>見えた訳です。
先のことわざと照らし合わせて考えてみます。
新郎の母にとって、司会者の<姿勢、体の傾き加減、頭部の微妙な動き、かもし出す雰囲気>等が、<人に疑いをかけられるような(居眠りをしているような・・)、紛らわしい行為>と映ったわけです。
以前学んだことのある
『言葉は、その人の意思を離れて、独自の働きをする』という法則を応用すると、言葉だけでなく、人の振舞いも、同様だと思えてくるのです。
『人の振舞いは、その人の意思を離れて、独自の働きをする』という法則も、成り立つように思えるのです。
自身の「振る舞いのうしろ姿を観ること」とは、<人に疑いをかけられるような、紛らわしい行為はしていないか・・・>をチェックすることをいいます。
言葉のうしろ姿を観ることと、振る舞いのうしろ姿を観る事、この二つは、より良く自分を理解してもらう為の、車の両輪のような大切な<心がけ>に思えるのですが、如何でしょうか?
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