安部首相の施政方針演説を聴いて
なぜあのように「演じる」のでしょうか?
両者共に「ふし」がつき、声は甲高く、言葉の届け先が定まっていないように感じます。
お二方の演説は、ここはちょっと強めに言おうという部分が、あらかじめ決められているようです。
原稿を<棒読みしている>と言われないための<演出>のようにも思えました。
心の発露が感じられない演説、表面的な演説に思えてなりませんでした。
演説者を表現者として捉えると、少し残念です。
安部首相はもともと声質が細いので、変に強調したりすると余計違和感が出てきてしまいます。
国会ですから、おそらく最高水準のマイクを使っているはずです。広範囲にしっかりと声を拾ってくれますので、普通に話せば良く、意識的に強める必要はないはずです。
パフォーマンス先行・・少し内容が伝わりにくかったのではないか・・と思いました。
なんかちょっと無理しているのかなぁ・・といささか不自然さが残りました。
演説の内容はともあれ、良く頑張ったね、堂々としていたね・・という評価は得る事ができるでしょうが、なんとももったいない話です。
一国のトップ・・、説得力のある演説を聞かせて頂きたい!
声のトーンをもう少し低くし、声の届け先を全体にバランスよく3箇所に決め、普通に話す・・自然に話す・・!
演説者がどうしても伝えたい、あるいは訴えたい内容であれば、演説者の心の中に<激しい情緒>が生まれ、その激しい情緒が言葉に添えられ発せられる・・・この瞬間「語気」は自然に強まり「迫力」が出てきます。
これこそ自然体の妙!聴衆は演説者に引き込まれ、内容はしっかり伝わっていきます。
口先だけ語気を強めても<からまわり>します。これは司会20年の私の実感です。心が付いていかなければだめなのです。
他者の作った原稿に自身の魂、あるいは自身の心を入れ込む作業を省かざるをえなかったのでしょうか?
それを<語気の強調や抑揚のテクニック>でお茶をにごそうとしていたのでしょうか?
これでは国民は満足しません。安部首相の人間が見える演説を聴きたいと思います。